桐紋

神社の由緒

歴史と由緒、当社にまつわる豆知識。

About Hokoku shrine御祭神・社宝

重要美術品 紙本著色 秀吉像

御祭神について

当社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社です。ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が11年にも渡り、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。さすがの信長も攻略をあきらめ、和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であったことから、秀吉公は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだという、御祭神に最も縁が深く奉祀するのに最適な神域とされています。

Hokoku Shrine was erected under the edict of Emperor Meiji and is dedicated to those three great benefactors of the Japanese nation, Toyotomi Hideyoshi, Toyotomi Hideyori, and Toyotomi Hidenaga.Sharing in the good fortune of the Toyotomi clan, Hokoku Shrine offers a charm of success to visitors coming to pray for ‘good luck and prosperity’. The statue at the shrine entrance is of ‘Toyotomi Hideyoshi’ and was crafted by the foremost Japanese sculptor, Shinya Nakamura.

社宝について

当社の社宝であり重要美術品の紙本著色の秀吉像は、大和小泉(奈良県大和郡山市)の片桐家伝来、伝狩野山楽筆の名品で、数ある秀吉画像の中でも他に類をみません。唐冠をかむった衣冠姿で曲ろくに座し、前方の沓床(くつどこ)に脱いだ沓が置いてあります。禅僧の肖像画にあっては曲ろくに法被をかけてあるのが普通ですが、本画像は法被こそありませんが明らかに伝統的な頂相(ちんぞう)形式を念頭におきながら法体像(ほったいぞう)ではなく、公家の略礼装をした秀吉公を描いています。そして武家であることを強調するため実在しないような長大な太刀を曲ろくに立てかけています。
片桐家の伝承によれば、秀吉公没後、大阪城主になった幼少の秀頼がある時城内で重臣達を前に亡父秀吉公の画像を見たいものだと述べたところ、片桐且元(かたぎりかつもと)が未表装の画像を持参しました。感激した秀頼が画像上方の余白に自ら「豊国大明神 秀頼書」としたためて返したとのことです。秀吉公自筆の辞世和歌の草稿と思われるものが神号の横手に貼り付けてあるのも目をひきます。本画像は構図が極めて珍しいだけでなくその容貌においても独特の生気にあふれています。歴史の教科書等でよく見られる代表的な画像とは随分異質に思われますが、顔の造作をよく見ると非常によく似ています。
《『 豊臣秀吉を再発掘する』渡辺武著・新人物往来社・1996》

About history歴史について

明治

当神社は明治元年、明治天皇が大阪に行幸になった際、国家の為に大勲労のあった豊太閤を、この大阪の清浄な地に奉祀する様にと仰せ出されたので、種々熟議の結果、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の大阪市北区中之島/中央公会堂の地点)に、明治13年に創立されました。

大正

大正元年中央公会堂建設のため、府立図書館の西方の公園内に移転し、大正10年に別社から独立して府社に列せられましたが、昭和20年終戦と共に社格が廃止されたため、宗教法人となり神社本庁所属の神社となりました。昭和10年頃より大阪市の発展に伴う市庁舎増築のため、隣接する当神社の移転の議が起こりましたが、大東亜戦争の開戦により移転の件は一時中止となりました。

昭和

その後昭和31年に大阪市より神社移転の要望が再開され、御祭神に縁のある大阪城内を移転地と決定し、昭和36年1月大阪市北区中之島より奉遷したのが現在の神域です。

Bits of knowledge豊國神社の豆知識

Knowledge.1秀吉公の銅像

彫刻家 中村晋也氏(平成19年文化勲章受賞)作、高さ:5.2m(像:3.2m、台座:2m)

明治36年に大阪城内に建立された豊臣秀吉公像は、その後当社旧境内地(大阪市北区中之島)に移され、長きに亘り市民が秀吉公を身近に感じることができていました。しかし戦局の激化と物資の不足を補うため昭和18年に供出され、その姿を見ることができなくなりました。以後も秀吉公像の再建を待ち望む声は途切れることなく、およそ60年の時を経て、平成19年、当社境内に再建されたのが現在の豊臣秀吉公像です。製作は日本彫刻界の第一人者で、日本芸術院会員・文化功労者の中村晋也氏によるもので、旧像の写真を元に、大きさや姿を踏襲し、一部現在の学問的な時代考証に矛盾する部分には修正を加え、文化的価値を併せ持つ旧像の復元となりました。

Knowledge.2お城のドン

小天守台の上に西向きに備え付けられていた大砲があります。現在は天守閣大門前の東側に移設されています。明治維新以来、大阪城地を占用していた当時の陸軍が、明治3年(1870)6月からこの大砲を使って毎日朝・昼・夜の3度、黒色火薬を用いた空砲により、時報を打ち鳴らしました。同7年7月からは正午のみとなりましたが、これが城内だけでなく大阪市中に毎日とどろきわたったため、大阪市民にとって正午の時報の役割を果たすようになりました。これを、「お城のドン」とか「お午(ひる)のドン」と呼んで大いに重宝したのです。
《『 大阪城秘ストリー』渡辺武著・東方出版・1996》

Knowledge.3大阪城築城について

古代、難波宮が営まれ、宮殿を中心に壮大な難波京のプランが立てられました。この難波京は8世紀末長岡京遷都を機に廃墟と化しましたが、15世紀末本願寺8世法主蓮如がその付近の摂津国東成郡生玉庄大坂という在所に一宇の坊舎を立てたのをきっかけに新たな活気が生まれ、16世紀にはその一帯が大坂本願寺、通称石山本願寺とその寺内町大坂として繁栄するところとなりました。しかし、戦国の世を生き抜くため城郭化をすすめた石山本願寺は、織田信長との長い戦いの末、天正8年(1580)寺地を明け渡して紀州へ移ったとき、堂塔伽藍が寺内町もろとも全焼しました。信長はその廃墟を将来のため手中に収めたものの、活用できないままこの世を去りました。大阪城と大阪の直接の起源とされる豊臣秀吉の大阪築城は以上の前史をふまえて実現したものです。
天正11年(1583)、攝津国を入手した秀吉公は、早速大阪の“旧城”(石山本願寺)跡地に天下統一の拠点とするべき大城郭の築造を企て支配下の諸大名、諸職人、諸商人を総動員して同年9月着工しました。およそ1年半でまず本丸が完成。ついで二の丸、数年後に惣構(そうがまえ)、最後に死の直前に三の丸の築造というように、2キロメートル四方にも及ぶ鉄壁の巨城の完成には15年もの長い年月と尨大な労力を要しました。築城当初、1日2、3万人の人々が工事に携っていましたが、後には5、6万人も動員されたと、当時の記録は伝えています。また、築城開始後わずか40日間に7000戸もの家屋が大阪城周辺に建てられたとも伝えられています。少なく見積もっても築城工事は5、6万人もの人々の大阪への集団移住を促し、必然的に城下町の基礎を形成しました。当時、京都に次ぐ大都市堺の人口が約5万人だったことからみても驚くべき大都市の出現といえるでしょう。
《『 大阪城歴史散策』渡辺武著・保育社・1992》

Knowledge.4秀吉公も好んだ桐の花

大阪城天守閣の北側、一段低くあまり日当たりのよくない山里丸にキリの大木が約30本、ケヤキやクスノキ、イチョウなどの樹木の間に生い茂っています。これらのキリに毎年、4月下旬から5月上旬にかけて薄紫色の花が美しく咲きそろいます。緑色の葉をスカートのように腰につけて3本の花芯が天に伸びていく、この姿が桐紋の原形であり、一般に豊臣家のシンボルと認識されています。桐紋を豊臣家の家紋とみなすには問題がありますが、桃山時代に「五三」「五七」などの桐紋やさまざまな桐文様が大流行した事実と、その発端を秀吉公の桐紋愛好に求める説は無視できません。なお、現在の桐は昭和40年の極楽橋再架以後に植樹されたものです。
《『 大阪城秘ストリー』渡辺武著・東方出版・1996》
桐紋