境内のご案内
四季折々に美しい、豊國神社の境内をご紹介。
1本殿・拝殿
御祭神:豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿
明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営。大阪には別格官幣社豊國神社の別社として、明治13年に中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立されました。その後、中央公会堂建設のための移転を経て、昭和36年1月に当地へ奉遷いたしました。ここ大阪城跡は、歴史的にも要害堅固の地として知られ、御祭神に最も縁が深く、奉祀するのに最適な神域とされています。
2豊臣秀吉公像
明治36年に大阪城内に建立された旧豊臣秀吉公像は、後に当社旧境内地(北区中之島)に移され市民に愛されてきましたが、昭和18年の金属類回収令により供出されることとなりました。以来、再建を望む声は途切れることなく、平成19年当社境内に再び建立されたのが現在の豊臣秀吉公像です。製作は日本彫刻界の第一人者で、日本芸術院会員・文化功労者の中村晋也氏によるもので、旧像の写真を元に大きさや姿を踏襲しつつ、学問的な照査をくわえ文化的価値を併せ持つ旧像の復元となりました。軍配を手に、陣羽織、具足を身に着け、彼方を見据える姿には、数多の戦に勝利し天下統一を果たした、その強い思いを感じ取ることができます。
中村晋也作(平成19年文化勲章受賞)/ 高さ5.2メートル
3秀石庭しゅうせきてい
本庭園は、昭和を代表する作庭家、重森三玲氏の設計・指導のもと造られた庭園です。秀吉公の「秀」と大阪城地の古名である石山の「石」を取り「秀石庭」と命名され、「秀吉公の豪健な庭園」という意味が込められています。歴史的に、大阪は海に面したことが発展の原動力となってきたことから、“草木を用いない海洋表現”を旨とし、かつての地名もかけあわせ、石山を模した石庭が造られました。
また日本では古くから石を神格化し、神社の庭園は、石を御神体とする「磐座(いわくら)」や磐座を中心とした祭祀の場・神域である「磐境(いわさか)」を発祥としたことに鑑みて、秀吉公ゆかりの千成瓢箪を地割模様とし、伝統的な日本庭園の手法である蓬莱山石組にて巨石を組み合わせ「石山」を表現しています。
4若永神社わかながじんじゃ
- 御祭神
- 宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)
今を遡ること四百年余前、豊臣秀吉公の御用商人であった豪商「淀屋」の屋敷内に火難除けの御守護神として御鎮座された稲荷神社です。大阪市の都市計画に伴う地下鉄御堂筋線工事のため、昭和2年に大阪市庁社東の豊國神社境内に遷座され、その後昭和36年1月に豊國神社が当大阪城内に遷宮の際、現在地に御遷座されました。現在も淀屋の末裔の方々をはじめ、多くの方々の信仰を集めています。
5摂社
【白玉神社】しらたまじんじゃ
- 御祭神
- 宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)
- 御利益
- 五穀豊穣、商売繁盛
現在の大阪市北区中之島にあった某藩蔵屋敷に白玉稲荷神社として祀られておりましたが、蔵屋敷の解体に伴い、当時仲士頭として仕えていた野崎喜三郎氏の自宅(東区淡路町)に移して祀られておりました。明治13年、北区中之島に豊國神社が創建された際、「元々お祀りされていた中之島にお帰りになったほうがよい」と野崎氏から申し出があり、明治14年12月に、豊國神社境内に遷座されたと伝わっています。
【七夕神社】たなばたじんじゃ
- 御祭神
- 稚日女尊(わかひるめのみこと)、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)
- 御利益
- 良縁成就、安産、芸事上達
現在の北区東天満に「無各社 七夕稲荷神社」として祀られておりましたが、明治時代に行われた神社合祀政策により、明治40年に白玉神社と合祀されたと伝わっております。
稚日女尊(わかひるめ)は、「若くてみずみずしい日の女神」という意味があり、天照大神の妹神とも、和魂(にぎみたま)、幼名とも言われております。
【玉春神社・玉繁神社】たまはるじんじゃ・たましげじんじゃ
- 御祭神
- 宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)
- 御利益
- 五穀豊穣、商売繁盛
七夕神社と同じく、明治の神社合祀政策により、七夕神社とほぼ同時期に合祀されたと伝わっております。
- 6社務所
- 7手水舎
- 8表鳥居
- 9裏鳥居